昭和43年12月4日 朝の御理解

御理解 第18節
「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」



ここに参っている人々がみな神の氏子じゃと。ここに参っておる人々。ここに参っておる人。それが神の氏子じゃと。みな神の氏子じゃと。生神とは、ここに神が生まれるということで、とこう、生神とは、ここに神が生まれるということ。まあ、神の氏子じゃと仰るのは、えー、うー、本質は神だと。ね。いわば、本当は神だと。人間はみんな。ところが、本質はそうであっても、その本質が我情で、または、我欲で汚されけがされするところに、その本質を失ってしまうのです。そこで私達が、ここに参っておる氏子と、こう仰るその、皆さんここに参ってきておりますがね、けれども、ここから、新たにね。生神が誕生しなければならん。まあ、生神が誕生すると、ま、ここにはやはり、そう書いてありますよね。そう言うておられます。神が生まれること。生神とは、ここに神が生まれると言うてある。ですからその、私共のね、その我情とか我欲とかいったようなものが、こう、外れるというか、取れたその習慣とでもいおうか。ね。その隙間から、ぷっとこう、光を放つようにです。その本質の、一つの、おー、光と言うかね。そういうものが、こう覗いて見える。欲もなからなければ、徳もないというように、ただ有難くなってくる。と、そこから、えー、暑さ、暑かっても暑さを感じん。寒かっても寒さを感じんというような、喜びが湧いてくる。その喜びのひと時が、生神が生まれようとしておるときなのです。ですから、なら、その我情我欲がこう、私共の心の中に、覆いかぶさっておるというか、だから、それが取れたときに、その本質であるところの生神が誕生するのです。ちらちらっと自分のような心の中にも、このような有難い心がある。この喜びはどこから湧いてくるのであろう、と思うようなことがある。ね。だから、そこが、ま、楽しみなんです。ね。ですから、そこのところの、おかげを、おー、広げていくと言うか、そこんところの、おー、喜びをいよいよ目指していくということが信心だと。ね。ですから、私共は、どこでも、この私共の、金光様のご信心と言うのは、その、生神を目指すということ。実際は目指さなくても、本質的なものが、には、生神としての値打ちを持っておる。それが、我情で曇り、我欲で汚される、ね。それでその、我情が少し薄くなったり、取れたりする、その隙間から、ね。どこから湧いてくるかわからない喜びが、ある事実を、いわば、突き止めるところから、そういう、境地とでもいうかねえ。そういう境地を、いよいよ広めていくという事に、楽しみを分からせてもらうことが信心なんです。ところが、誰だって、そんな事を目指してから、はじめから参ってくるものは一人もおりはしませんよ。まあ、生神様を目指して参ろうというものはおりはしません。やはり、ね。難儀を感じ、その難儀から開放されたり、そこからおかげを受けたりというので、皆が参ってくる。ね。まあ、私、いー、ここが、合楽教会として、神定めの地であったという事を、私、感じるけれども、えー、ここから、下へ下って、ま、善導寺から、こう、合楽のバスの停留所を拾うてきてみる。善導寺、ね。飯田、勿体島、椛目、常持、合楽と。(咳払い)
皆さんは、よいお導きを頂いたのだ。様々な難儀を感じておるところへ、まあ一遍、金光様へお参りをしてごらんなさい。ご信心を頂いてごらんなさいと、というので、導かれて参ってきた。いわゆる、善導である。いわゆる導きを受けたのである。そして、何にも分からんのにおかげを受けるのである。飯田である。ね。飯田というもは、えー、飯の田と書いてある。いわゆる、ね。いわゆる、ままになるのである。ね。その、病気してた者は病気が治ると。金銭に難儀しておったものは、金銭のお繰り合わせを頂く。はあー、こりゃ、信心とは有難いもんだなと。金光様とはあらたかなものだなあと、こう、はじめて分かってくる。そこから、いわゆる、勿体島である。勿体ないことだという信心が段々分かってくる。ところがまだ、この辺の時にはね。今度は、自分のことが、思うようにおかげを頂いた時には、勿体ないけれど、思うようにならんと、その勿体島が、勿体島になって来ない。有難い、勿体ないことにはなって来ない。もう、その辺が大事だなあ。えー、神様は、聞いてござることは聞いてござるじゃろかと。この頃お願いして、おかげ頂いたと思いよったら、あらもう、偶然じゃなかじゃろかといったような事にまでなって、もうこの辺で、信心が迷うてくるね。そして、根気が続かんで、えー、勿体島の辺で、あの、やっぱり、勿体島というところは、今でもやっぱ、ちょっと坂ですわね。私共は昔、リヤカー引っ張ってこう、酒やら引っ張って廻りよるときには、あの、勿体島の土井ち言うのは、やっぱちょっと、おー、骨が折れよったぐらいに坂がある。あの坂を、勿体島の坂をやっぱ、越さな行けん。ここんにきが一番大事なんです。飯田から勿体島の間は楽なんだ。ままになるのだ。まあ、なるほど、参ら、参るがたある。そういうわけなんです。ところが神様は、そう、ね。撫でたり、擦ったりばっかりしっしゃらんもん。ね。間違や、怒りもしなさりゃ、叩きもしなさるという時期が必ずあるんです。それが、勿体島の坂を一つ越さにゃ行けん。ね。この辺までは、生神を目指すとか、ね。信心を目指すじゃなくて、いわゆる、おかげを目指すわけなんです。おかげによって、なるほど神様がござるなあ、神様とはござるばいと、こう、思うようになる。ね。だから、勿体島の坂を下りる頃から、言うなら、どういう事になるだろうか、んー、なるほど、この坂を越しゃあね、いわば、痛いことも痒いことも、あれも御神意だったと、あれも神愛の現われであったと、後で考えてみて、あれもおかげであったと分かるようになる。ね。この辺になってくると、いわば、信心の佳境というかね。有難い心が開けてくる。これから先、よし、自分の思うことになることもおかげなら、思うようにならんこともおかげだと。ね。いわゆる、心に喜びの花が咲く。よろこび、自分の心の中に、それこそ、菊の花にも似たような心が、心の中に、いー、頂けるようになる。ね。いわゆる、信心の喜びである。おかげの喜びではない。ね。それが、椛目に到着したのである。ね。
合楽からの、椛目時代に頂いたご理解の中に、ね。ここには、喜びの花を咲かせげ来るところじゃと仰る。ね。(実は内でうくる?)ね。椛目、椛目と言うて、皆が一生懸命通うてくる。で、そこに、信心の喜びの花が、椛目のお広前で、こう咲く。ね。それが、自分の家で実っていかなければならん。椛目というのは、木偏に花という字が書いてある。ね。椛目である。木偏、キは心、心に花、ね。そういう喜びの芽が出る。同時に花が咲く。喜びの花が咲く。ね。その、喜びを、ね。持ち続けるというところに、常持がある。ね。常持というのは、ね。常、常の御姿の常。もちは、あの持っていくの持っていく。常に持ち続けるということ。その喜びの心を持ち続けると、ね。そして、ここ、合楽にゴールインするわけである。しかし、こうやって、こじつけたごたることを言うけれども、しかし、ここに、合楽の地に、ここに、その、金光様が、あー、この、鎮まりなさるということ。ここに教会が出来るということはね、もう、ほんとに考えてみると不思議で不思議でたまらん神様の働きの中に、あーあって、こうあったのだ。という事を、そういう事の中からでも感じる。今、私は、バスの停留所の地名を拾うてから、善導寺から合楽までを、皆さんに聞いてもらったんだけども、信心の過程というものはね、そのような過程をたどらなければならん。果たしてお互いが、今どこを辿っておるだろうかということ。善導寺から勿体島の間だけを、いたりきたり、しよるようなことはなかろうか。椛目に向かいよらん。ね。
えー、ニ、三日前、久留米の三橋先生が、そこでお届けをするんです。これは私、三橋先生だから言うたんです。他のもんなら、ああそれは、おかげ受けよるなというけれど、三橋先生だから、私は、何時までも、それでいてはならんと思うたから、言うた。もう先生、この頃はね。こうやって日々、お生かしのおかげを頂いておるということが有難いと。もう、本当に、痛かっても生きとる印と思う。痒いかっても生きとる印と思う。こげな有り難いことはないというんです。あらあら、そしたら、三橋先生、そら、あんた、どういう事になると私が言うんですよ。生きとる間だけは有難かろばってんが、死んだらどげんなるのち私が言うた。有難くなくなってくるじゃないのち。三橋先生、そこの先にもういっちょね。あるよて。なるほど、お生かしのおかげを頂いておることは有難いけれど、そういう事になってくるとですね、さあ、ほんなら、お国替えという時には、有難くなくなってくる。生きとることだけが有難いのじゃないのだと。死ぬることも有難いのだと。もう、ぼちぼち三橋先生、そこんにきが分からにゃ、いけんよて言うわけです。そうでしょうが。ね。病気が治ることが有難いのじゃないと。言うなら、自分の思うようになることだけがおかげじゃないと。そこに生きてる印を見ることは、ね。感じることは、ね。有難くないのじゃない、有難いけれどもです。けれども、ほんなら、死ぬることもまた有難い。
今朝から私、起きがけに、こんなことを頂いた。「今日、ここに、会う楽しさや、菊生ける」と頂いた。菊の花を生けておるわけです。今日ここに、会う楽しさやと、菊生けるというのである。いわゆる、合う楽しさというのは、合楽ということである。ね。皆さんも、今日ここに、お参りをさせていただいとると思うけれどね、なるほど、お参りをさせて頂いておるんだ。けれどもその、お参りをさせて頂くというてもね、それが、許されなければ参られんのである。ね。例えば、お互いが、その、生きることを許されておるから、今日、生きておるんだけれども、ほんなら、死ぬる事だって、許されなければ死ねんのだと。ね。だから、今日ここに会うということはね。死に合うのかもわからないのだ。生にめぐり合うか、死にめぐり合うか分からん。ね。ここまでね、私が、段々、信心を、おー、身に付けていくというか目指していかなければ、ね。いわゆる、死ぬるにも、神のお世話にならんわけには行くまいがと仰るように、死に際にも願えと仰るように、死に際にも、いわゆる、ああ心やすしという境地がね、開けることを願う。いわゆる、ギリギリ信心、信心というかね、信仰の、いわゆる、ギリギリのことなんです。ね。そういう心が開けてくる。そういう姿勢感が出来てくる。ね。生きることが有難いなら、また、死ぬることも有難いのだと。ね。その、生きることが許され、死ぬることが許される。そういう、有難さが分からせて頂くために、ここ、御理解十八節の、私はね、ここへ参っている人がみな神の氏子と仰る。神の氏子としての自覚。ほんなら、自覚ができただけではいけん。ね。生神とは、ここに神が生まれるという事に努力しなければいけない。ね。生神とはここに神が生まれる。ね。しかもそれが、皆も、そのようなおかげが受けられる。生神というのは、そのー、どういう時に生まれるかと。ここに神が生まれるということは、どういう心の状態のときに神が生まれるかと。私はあの、教祖様が、えー、よう、無学の百姓でと、こう仰っておられるね。無学の百姓であるということは、学問が出来てないと。そんなら、出来とらんけれども、ね。百姓だけは出来るという意味じゃないと思うですよね。無学の、無学のということは、何にも出来ない、ね。いわば、知恵も力もないというのである。百姓だということも、そうです。ね。自分は無学だけども、百姓だけは出来るというのじゃない。ね。これは、自分の、おー、無力であるという事を、言うておられる言葉である。私は、だから、私もそれを思う。ね。私は、無学の商人だとこう思う。ね。それが、私の、おー、一つの開眼であった。ね。いわゆる、終戦、その、おー、機会を得たことが、ね。今まで、ほかの事は何にも出来んけども、商売だけなら出来るとこう思うとった。いわゆる、自信たっぷりであった。もう、絶対、資本がなからにゃ商売はでけんてん何てん言う人が可笑しかった。そげなこつはなかて。資本はなかっても商売は出来るて。その私がです、ね。いわゆる、タオル一筋でも、売れる、売る力がなくて、いわゆる、自信喪失してしまった。今まではね、いわば、なるほど、努力はしよったけれども、売らせて頂いておったんだ、許されておったんだということである。人よりも、何倍も許されておったということである。ね。いわゆる、無学の商人である。というその、開眼ですね。そこに、自分というものを、いよいよ、ギリギリ見極めたんです。最近、えー、この前の、信徒会のときに、平田さんがお話をされた中に、ね。私は最近、自分の信心に、まあ、自信喪失と、自信をなくしたといったような意味のことを言っておられたということで、あちらがですね、平田さん方のような修行で、あれだけの、いわば大きな偉大な信心ですはね。の、信心の人が、そこに開眼されてからの信心であったら、こらもう、いよいよ素晴らしい信心が生まれるであろう。いわゆる、生神が生まれてくるだろうと私は思うですね。なはー、私が言うことすりゃ、私がという間はね、絶対、生神は生まれてこないのです。私の、我だけしか生まれてこない。自信喪失をするところから、生まれてくるものだと。神様の場合は、いよいよ、無条件で、手を上げたところから、生まれるのだということ。ね。いよいよ、神様との結合が出来る。いよいよ、無条件降伏ということ。ね。神様が右向けと仰りゃ、「はい」。左向けと仰りゃ、「はい」。といわなければおられない。だから、神様の前に、無条件降伏をする。ね。神様の言いなりに、そこから、ほんなら、私の信心がです。いわゆる、神様任せの信心というのが生まれてきた。ね。そういう時に、三代金光様は、私に、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからというような御教えが、初めてはっきり頂けもし、分かってきた。ね。神様との結合。そこから生まれてくるものが生神、ね。座ることも立つことも、神様のお許し無しには、立ちも出来なければ、ね。かがむことも出来ない。ねえ、そういう信心が、そこからでは出来てきとる。ね。
高橋正雄ていう先生は、ね。もう、ギリギリに自分というものを見極められる。見ること見ること自分を見ることと。そして、何をそこに発見したかと。自分のね、長所を発見するとか、欠点を発見するとかといったようなものじゃないですね。私は、先ずその、過程においてはそれがある。ね。自分は、これは自分の長所と思うておったが、これは、長所じゃなかった、欠点だったと分かる。これは、自分の欠点だと思うておったことが、これは欠点どころか、私の宝だと、こう分かる。まあ、一例を上げるなら、私のこと。ね。なるほど、自分の長所を知っておった。だからその、おー、長所を宣伝する。ね。ところが、段々、自分を見ること見ることという事ですかねえ。自分を、いよいよおギリギリ見極めていきよったら、ね。それは、もう、私の欠点であることに気付いてきた。そして、これは、これがあっちゃ自分な成功せん。これがあっちゃ自分な儲けな出来らんと思いよった欠点がね。これは長所であることが分かってきた。いわゆる、神様を前に、無条件降伏をしたが最後ですね。私はね、大体、子供の時から、嫌ち言いきらん性分なんですよ。もう、金を貸してくれち言や、自分に無かったっちゃ、無かばのと言いきらじゃった。(借ってきなさって、どうかやらにゃでけん?)例えば、飲みになんか行きますとね、はー、みんな、五時になると友達と行きますよ。そすともう、やっぱなかには(ふくらかつがおってから?)こういう、隣の奴がその、財布の中、見といてから、あー、あれが、持たんなら俺が出そうばってんが、持っとる間は、出さんち言うとる。ですが、支払う、飲む時は、全然、よこたこつばっかり言うて飲みよるばってんが、いよいよ支払いとなると、何時まっでん、金を、財布を出さん。もうそれがあーた、一番の、一番口出さじゃ出来じゃった。なかなら、私が付けといてくれんのち、言わじゃでけじゃった。そして、私が帰ってきてから、はー、俺はこげなこっじゃ儲けだしはきらんと自分で思いよった。もう、子供のときから、そうだったんですよ。隣に叔父、叔母がおりましたがですね。もう、きつして応えんてね、いうなら。時でん、肩ば、揉んでくれてん、足ば揉んでくれてん言うじゃん。そすとそん、私はきつかけんで、嫌ち言いきらなかったんですよ。もう、それこそ、泣く泣くでもそうしてやらにゃ出来ない、私は性分じゃったっです。ね。そして、自分でですね、自分の無気力さというか、勇気のないことにですね。はー、ほんに自分ちゃ、子供のときから、その事が、やっぱ悲しかったです。ね。ところがそれが、自分、こげなかっじゃ儲けだしはきらん。こげなこっじゃ自分な成功は出来んというような、そういう欠点がです。もう、私にとって、いわばあの、最高の長所であったことに気が付いたんです。ね。これが、人の場合はそうじゃったろばってん、これが、こと神様と対することになったらね、それは神様が、ある意味合いでは無理難題ですよね。私の修行中はそうであったんです。それこそ、無理難題を仰っても、嫌と言い切らん性分じゃき、泣く泣くでもやっぱり、そうしなければ出来なかった。そして、泣く泣くでも、そこんところを、さして頂きよったら、神様が、こういう有難いおかげを下さる事のためであることが分かってきた。私に、もし、そういう、だから、私の信心は、「はい」の一字から生まれてるちいうんです。ね。まあ、嫌でも、とにかく「はい」といわにゃ、嫌と言い切らんとじゃもん。「はい」としか言いやきらん。だから、私に家がここに出来る。財産が出来る。蔵が出来たとするなら、その家、蔵、財産は全部私の「はい」から生まれたんだと。ね。なら、そういう風に思うんですけどもね。そしてですよ、ね。今日、私が言おうとするのは、そのまいっちょ向こうなんです。ね。自分には、ね。長所もなからなければ、欠点もない。ね。いわば、無垢の自分。無垢というのは、白無垢の無垢ですね。そこにはね、もう、なーにも、実を言うたら出来ない私なんです。
自分をいよいよ、見極めていくときです。ね。本当に、そうですよ。言うなら、立つ事だって、座る事だってね。許されなければ出来ん。私は、今日、不思議なことがあったんです。あの、私の居間からここまでやって来る時ですね。どんなに、まっすぐ行こうと思うてもですね。廊下の真ん中を通っとるつもりじゃろばってん、頭のほうが、こうここうこやってから、おっほ、ほっ、左のほうじゃったか、右のほうじゃったか、とにかく、こうこやって行くんですよ。いわゆるその、こっからこう、ほっほ、可笑しいんです。で、またこう、一遍、止まっといてからですね。また、まっすぐこう、行きよるつもりじゃけども、また、それとその、えーと、こうこじゃけんで、えへっ、左のほうか、左のほうさんばかり、こうこ頭を振り振りして行くわけですよ。はー、夕べ、ちょっと飲み過ぎたけんじゃろかと思うてから、頭をこう、打ちぶっといてから、行くばってんからですね。そしてから、あー、そこへ、いよいよ、行きよっときな、ほんな、もう、壁すれすれに歩いとる自分に気がついたんです。そしてこら、ほんなこつが、神様のお許しいただかにゃ。こらほんに、町どん歩きよる時ですね。自動車のきよるこつまで、こうこやって、はははは、私は、ほんとにそげん思うたけ、今朝。こらー、ほんに、まっすぐ歩きよると思うけれどね、まっすぐ歩く、あそこへ目指して歩こうと思うけれどもね。その歩くことすらが、許されなければ歩かれんていうこと。皆がお参りしようと思うけれどもです、ね。許されなければ参られるこっじゃなかと。ね。今日、私、御神前に、お届け帳を、これからここまで来るときも、そげな感じがしたんですよ。これなんか、びょう、びょう、何か、病気でどんじゃなかじゃろかと思うた。お届け帳を持って下がる時でも、とにかく、慎重に、慎重にしなければ、まっすぐ下がられなかったんです。だから、神様が、例えば、人間のこの、肉体と、五体なんかでも、ちょっと、どげんかした神経を、ちょっとこう、緩めなさるか、締めなさるだけでですね、人間な、カタカタ動きすることなるですよ。うっふ、ほんなごと。ほら、あーたもう、自動車が向こうから走ってきよるけん、こっちへ行こうと思うたっちゃ、体が、こうこやって横へやら、どんこんできんですもんね。ん。本当に、おかげいただかにゃ出来ることじゃない。ね。そこから、分からせられることがですたい。全てのことが神様に許されなければ出来ることじゃないということ。ね。それにはね。結局、自分というものがです、ね。あれが出来るとか、これが出来ないとか。長所とか、欠点とかと言うけれども、ね。何にもない私と。いうなら、障子一重がままならぬ私であるという、そこからね、そこから、私は、生神が生まれてくる。ここに神が生まれるというのは、その境地からしか、生まれてこないというふうに、今朝は、私は感じた。ね。中途半端な心からは生まれない。何にもない。何にもない中からしか生まれてこない。ね。何かあるときに生まれてきなはったら、そら、ちっとばかり濁ごっとる。ね。何にもないところから生まれてくる。
「今日、ここに、会う楽しさや、菊生ける。」ね。自分の中に、ね。その喜びを生けあげていくということ。それはね、先ず、今日ここに、会えたということ。今日の日というかね、ここに会えたということ。ね。それは、お生かしのおかげに合えたということもあればです、ね。死に直面するかも分からないということ。死に合うかもわからないということ。
みなも、この通りに、おかげが受けられると仰るのでございますから、ほんなら、自分も受けたいというただけでは受けられない。それには、私はね、良い、やはりお導きを受けなければならない。そして、神様の働きを分からせて、いわゆる、おかげを受けなかればならんのだ。先ず。ね。願う氏子のおかげを授けと仰るから、願う氏子におかげを下さるのである。ところがその、おかげが薄くなってくると、もう、神様を疑うということじゃない。そこから、ね。話をして聞かせとこう仰る。理解申し聞かせと仰る。そここら、ね。理解が、耳に入ってこにゃいけん。ね。そして、何と有難い御教えだなあ、有難いことだなあという、いわゆる、勿体島の、勿体ないという心が開けてき、ね。その、有難い、勿体ないという心を、ね。いわゆる、椛目である。心に花を生け上げていく、心に喜びの頂けれるその、その楽しさというものをです。常に持ち続けて、常持である。ね。そこに初めて、本当の、合う楽しさという、ね。三橋先生じゃないけれども、今日、お生かしのおかげを頂いておることが有難い。なるほど、それは有難くないことはない、有難い。ばってん、それだけが先生、有難か、有難かと言いよると、死に直面したときに有難くなくなってくるよて。ね。合う楽しさというのは、全ての事に会う楽しさなのである。ね。そこから、きく、ね。久しく喜ぶと、喜久と。ね。そういう喜びがいただける。ね。そこに私は、生神を目指していくものの信仰があると思う。ね。和賀心が神に向こうて行くのを信心というのじゃと。金光様のご信心はもう、絶対、ね。皆が生神を目指すということが御道の信心なのだ。そのためには、私は、今日はその、バスの停留所を、こう拾って、お話したがね、自分がどこのところの過程にあるかと。ね。そこんところを私は、ね。現在、椛目であるなら、常持に、現在、飯田であるなら、勿体島に向こうていかなければならない。ね。そのためには、先ず、自分を知ること。ね。ギリギリの自分を見極めていくこと。そして、そこに、何にも出来ない私。いわゆる、無学の百姓である、無学の商人である自覚に立つこと。ね。そこから、いわゆる、生神畑とでも申しましょうかね。生神の生まれてくる場が、そこから生まれてくる。ね。そして、これを一つ持たせて頂くという事でも、ね。許されて持たせて頂いておるんだと、歩かせて頂いておっても、許されて歩いておるんだと。そこから、生まれてくる喜び。それが分かることを神様が感動ましますのだ。自分で歩いたように思いよったけれども、許されて歩いておることが分かるから、本当のことが分かるから、その事を、神様がお喜び下さる。その喜びが、こちらに、いわば、照り返ってくるように、どこから湧いてくるか分からない喜びが頂けれる。ね。すでに、そこにもう、生神が生まれござる。生神とは、どちらへ廻しても、どちらへ転がしても、喜びが出る。ちょうど、丸いものに喜びをいっぱい書いておるようなものだと、どちらへ転がしても喜びしか出てこない。それなら、生きることだけに、合うことだけが喜びじゃなくて、死ぬることに合うことも、ね。許されて、それである。いわゆる、ああ心やすしというところの信心がですね、身に付いてくるわけなんです。ね。えへっ、今日は、善導寺から、合楽まででしたが、ちょっとばっかりでしたが、時間が、あっはは、まあ、延着するような感じでしたですね。ね。どうぞ、そこのところをです、お互い、どこを今、通っておるか、たどっておるかという事を一つ、先ず、知ること。ね。そして、次の、おー、バス停を、に向かって進んでいかなければいけないのですね。どうぞ。

中村良一
2005年5月8日